5人いる!

5人がそれぞれに好き勝手にやるブログです。

虫の生活、虫の一生

お題「今日のおやつ」

f:id:goniniru:20160629120848j:plain

ロシアの作家にペレーヴィンという人がいて、まぁまだ2冊くらいしか読んでないのであんまり作家の総評みたいなことをすべきではないんだけども、『恐怖の兜』と『宇宙飛行士オモン・ラー』を読む限りでは、純文学の人、幻想を書くことで幻想を打ち破ろうとする人、という印象の人。どっちも誰にも勧められる作品という訳ではないけど、人の創造の力・想像の力を信じられるグッドな小説だと思うのです。不条理感を浴びせられることで、良い匂いのする液体を浴びせられて恍惚に打ち震える様な性癖の人間は是非読んで欲しい。

 

自転車に乗ってる時に、気持ちが昂って来て、大口を開けて歌い出すなどありませんか?私はあります。そうすると、周囲の人の迷惑が、とか考えなければそれはただただ気持ちの良い行為なのだけど、夏口・秋口など蚊柱・雲霞の羽虫群などを見かけることはありませんか?私はあります。の中に突っ込んで行く、という、人間側・虫側どちらにも何の益も無い展開に陥ることが多々あります。

 

で、分かんない、数は数えたことがないのですが、度々羽虫を喰う・吞み込む・食い殺しているんではないかと思うのですよ。あっ、今口の中に入ったかもしんない、と思ってベェーッベェーッと吐き出そうとしてみるけど出て来た試しが無い。俺は虫を喰うておるのか、空を喰うておるのか。

 

輪廻転生があるとして、俺が虫になったとして、巨大な怪奇な生物が向こうから迫って来る、避けられぬ、気付いたら世界が壁に囲まれている、あっココは巨大な怪奇な生物の肉の内側なのではないか、あっ俺は、俺の人生もとい虫生はここで終わるのか、こんなにあっけなく一生は終わってしまうのか、来世はもっと鮮烈な、嬉しい、一生を送りたい。なんて思いながら溶かされて死んで行くのは非常にイヤだな、って思うのです。

 

でも、もし俺がカナブンの様な殻の固い輩だったなら、巨大な怪奇な生物が向こうから迫って来る、避けられぬ、ええいそれなら行ってしまえ、行っけえええ俺、向かって来るヤツのスピードと、俺のスピードを合わせれば行けるんではないか、突き破れ、壁を、俺の全身全霊をかけて、物凄いスピードで正面からぶつかっていく巨大な生物と俺、俺たちの明日はどっちだ

てなことを思いながらぶつかって行くのかな、と思いました。

 

あっ、ペレーヴィンの『虫の生活』は読んだことが無いのですが、欲しい、でもちょっと定価が高いので古本で安く手に入れられないなあ、って日々うろうろしておるのです。読みたい。という話。

 

はてなブログはブログのお題をランダムに設定出来る「お題スロット」なる機能があって、出て来たお題に沿って文を書く、なんてことが出来るのだけど、「今日のおやつ」ってお題が出て来て、あ、これええやん、なんて思ったけど流石にこのお題でこの文章はエグい気がしてやめた。と思ったけどやっぱりコレにしておこうコレでいこう

アジア、結婚、競馬、短歌、底には更に底がある、という話

今週のお題「2016上半期」

f:id:goniniru:20150510093907j:plain

そもそもこのブログというヤツ、5人いる!ってタイトルなのに2人しかおらんやんけ!その2人もおらん!全然おらん!なんや叙述トリックか!!

…唐突に寂しさを覚えたので、最近印象的だったことについて書いてみようと思います。

 

そもそもタイトルなのですが、その仲間達の、自分が知る最後の近況な訳ですけども、一人は類い稀なる突進力とコミュニケーション能力で以てアジア一人旅・山に登ったり外国人の友人が出来たりしているらしく、一人は類い稀なる縁と美貌でイケイケの幼馴染みと幸せな結婚を果たし、一人は類い稀なるオタク心で短歌を詠み・読み続けて生活の糧とし、一人は類い稀なる鈍臭さでサラリーマンとして嫌々働き続け何故か競馬にドハマりするという酷く怖い字面の趣味を持ち、俺は、といえば、やるぞー、と言ってた会社で何年か働いたのち、もう良いんじゃないかなーって諦めて自営業したいなー、って言ったら両親に怒られるってところで話が止まっている状態なのですけれども、その

会社での話。

 

あるお客様から「何のために本を買うか」という話を聞いた時のこと。2月くらいだったか。

どんな本・漫画を読むのか、という話になった時に、そのお客様が仰られたラインナップが凶悪で、山野一安達哲蛭子能収山田花子丸尾末広早見純、とまぁー漫画ばかり出て来る上に、目を背けたくなる様な暗さを感じさせる漫画家さんばかり挙げられるんですよね。

・・・まぁ俺も大好きなラインなので話が非常に合ったんですけど。

で、なんでそんなイヤな気持ちになるようなものを読むか、ということなんですが、俺は「自分の中に無いものが見てみたい」という臆病者の恐いもの見たさ精神がグジリグジリと滲み出した結果で、お化け屋敷とか見世物小屋とか、そんな感じで「自分では作り出せないもの、想像の外側にあるものが見たい」というゲスい思考な訳です。それが如実に反映されるのが、人の意表を突いて恐怖させるホラーであったり、倫理観というルールを取っ払って展開される自由なグランギニョルであったり、会話と会話・文章と文章の偶発的な組み合わせから不定形を見出そうとするシュールであったり、なので、上記の漫画家の漫画の様なヤツを読むのです。

と思っていたら、そのお客様の観点は俺とは違って、

「人生にはものっすごい不幸な瞬間というものがあって、一旦そこにタイミングが上手くというか悪くハマってしまうと、想像も出来ないくらい普段の生活とは違う『底』に落ちていったのが自分の人生なのだけど、でもそこが『底』だと思っていたら、まだそこから落ちていく所があって、で、そこで止まったと思ったらまだ更に落ちていくところがあって、でまだその更に底があって、」

という話を語調を強めて語られるんです。冗談ではなく。俺には想像のつかない『底』。一度の会話で何度「底」って出て来るんだなんてバカバカしい突っ込みが出来ない本気さがあって、とても恐ろしかった。

「だから、お涙頂戴みたいな感動するような話は、もう全部嘘くさくて、全然読めない。誰かが作った残酷な話を読むことで、自分はまだ想像力の範囲内なんだ、まだ大丈夫なんだって思えるから、救われるような気持ちになるから、読みたいんです。」

と。どんな生活して来たんだよ。

 

自分の方向としては真逆な様な気もするのですが、でも、だから物語に触れるんだよなあと共感し、この一年のココに至るまでで一番印象的だった方。怖さもありました。が、このお客様との関わり合いで改めて「フィクション(物語)はどんな形であっても、必ず誰か(筆者含む)を救う手だてになる」という何となくの自分の思考が、明確化されたイベントでした。

 

その初回時の衝撃を機に、今でも仲良くさせて頂いてます。

ツイッター、八九時真宵、空洞、婆の作る世界

f:id:goniniru:20141219022513j:plain

今週のお題「卒業」というはてなブログのお題に乗っかって話を進めようと思います。

このブログ、本当なら1年前に始めるつもりだったのですが、集まった五人の仲間たちが、なんというかみんな面倒くさがりだったんですよね。

で、こう「あいつが始めなきゃ」「あいつのターンから始まりだ」みたいな変な牽制があって、始まってなかったんですよ。

 

そんな失敗みたいなものもあったけれど、僕たちはいろいろなこう、やったら多分面白いだろう、興味はあるけどちょっとな、みたいな変な迂回・尻込みから卒業していきたいのです。…僕「たち」という言葉をちょっと強調しておきますよー、おきますよー?

 

手始めに、何かの機会があったら書こう、と思っていた文章を掲載しておきます。

 

 Twitterというのがある。

 これは140字以内の短文をインターネット上に掲載して、人に見せたり見たりして悦に入る、というWEBサービスの一環なのだけれど、僕にはよく分からない、まるで魔法の様な「プログラム」なるものがあって、インターネット上にはそのプログラムを走らせることで、火が点く・人工生命が生まれ出づる・世界の人間と渡り合うなど、魔法の様な事象が起こせる。らしい。らしい、というのは僕にはそれを再現する能力が無くて、せいぜいこうしてつらつらと文章を書き連ねるくらいのことしか出来ないため、あくまでそういうのをやってる人が居るのを伝聞で知っているだけなのです。そのプログラムによってTwitterも動いていて、更にその中にも様々なプログラムが入り乱れており、毎日のように色んな動作をして見せている。

 その色んな動作の中に、botなるものがあって、これは先述の「人工生命的なもの」の簡易型なのだけれど、これがまたもの凄くて、時間差・もしくはランダムに、ツイッターサービスの文章表示部分に、自分で文章を投稿して来る。投稿された文章は全て表示部に出て来るため、一見すると、人間が投稿した文章も、botが投稿した文章も、全て同じ「Twitterの文章」なのだ。で、投稿するだけで無く、こっちが「こんにちわ」なんて挨拶をすると、「こんにちわ」と挨拶をし返してきたりする。怖し。

 HRギーガーって人が居て、その人が機械文明に支配されてしまった人間の姿を禍々しく絵で表しているのだけれど、その走りなんじゃないか、これは。機械と人間とが入り交じって、人間も機械も大差無くなって、その内どちらがどちらやら分からなくなって。怖し。

 化物語というのがある。

 西尾維新という人が書いた、「〜語」というタイトルの一連の小説の、一番最初に書かれたヤツである。これがまたまぁ、よくぞ書いたという位、現実に居そうな感じとフィクションでしかあり得ない感じとを併せ持った美少女が多数登場し、主人公の周りの様々な事件を形成していく。で、また主人公も美少女もよく喋るので、話が進まない割にもの凄い文章量になる。でも女の子の描写を楽しむのに必要な文章量。みたいな小説で、その中に「八九時真宵」という女の子が出て来る。またこれが不憫な子でね、応援したくなるんですよ。頑張れー、って。ツインテールで、小学生の制服みたいのを着た小学生みたいな子でね、でも小学生にしてはスタイルが良いというか、小学生的なスタイルの良さを兼ね備えてるというか、いや、僕は断じてロリコンって訳ではないんですけどね、事故で死んじゃってて、でもそれに自分で気付かない浮遊霊、ってだけでもう何か不憫じゃー、って涙腺刺激されるんですけどね、いや、でも健気な頑張り屋さんなんです、きっと『化物語』のアニメか小説かに触れたら、3割4割の方が「僕は八九時真宵ちゃん!^^」なんて彼女の肩を持つに違いないですよ、ええ。という彼女のbotTwitter上に存在していて、僕は彼女のbotをフォローすることで「彼女の投稿する文章」を読むことが出来る。

 ゆらゆら帝国という日本のバンドが居て、今はもう解散してしまったのだけれど、日本のロック界隈だけでなく、世界にリスナーがいる「日本語ロックの雄」で、僕は中学生の時に友人がカラオケで聴かせてくれた「3×3×3」から彼らの音楽を聴くようになったのだけれど、またその曲がスゴくて、ずーっと同じリフ・メロディの繰り返しで6分を越すのだけれどかといってボーカルで大きな変化を付ける訳でもなく、概ねローテンションで、過去にあった架空の猟奇事件の様なものを訥々とメロディも無く語るだけ、そこには何かの儀式の様な変なリズム感だけがあって、というまぁ田舎の中学生なのでノーウェーブとか現代音楽とかミニマリズムとか全くそういうのは知らなかったので、こういう曲が曲としてあるのか、と非常に衝撃を受けたのです。とはいえ、どの曲も超分かるぜ、ゆら帝のことなら俺に聴けよ!みたいな詳しさのあるバンドでは無くて、まぁぼちぼち愛聴くらいのかんじです。

 そのバンドの「空洞です。」という1・2を争う人気曲があり、園子音の映画にも使われて、フワー、ここでコレを使うんだー、と映画を観ながら胸が一杯になったことがあったんだけど、その曲がモテキ(この映画はろくに原作漫画を読んでも無いのに勝手にちゃらんぽらんなものと決めつけて未だに視聴していない)の映画のコンピレーションに収録される、というのでレンタルショップで借りて聴いてみたところ、小泉今日子がカヴァーをする、というなんとも珍しいコラボ曲。これがまた和の静寂感、日本の季節の移ろいを映し出すような非常に美しいアレンジで、とってもよいのです。雨の夜、電気も付けずに、一人真っ暗な部屋で聴くと、震えますよ。

 今自分が住んでる部屋の近くを自転車でサーッと通るのだけれど、すると側の家からヨチヨチ現れ出て「ここは車両はダメ、歩行者しか通っちゃダメ」と夜の12時頃に怒りを浴びせて来る老婆が居た。かと思えば、朝の10時頃にも出現し、「ダメ」とブツブツヨチヨチ現われ出づる。これは別段犯罪自慢的なものではなく、確かに生活道路ではあるものの、車両通行止めの表示・標識等はなく、道幅も人間5人分くらいはあるやや開けた場所。おばあちゃんっ子ということもあって、あまり老人に厳しい意見は持たない方だと自負があるのだけれど、「何なんやこの婆は、朝の憂鬱な気分を加速させる為だけに存在しとるんかええかげんにせえ」、もしくは「何なんやこの婆は、もう今晩は疲れとるんじゃけえ大概にしてくれえやええかげんにせえ」という言葉を胸中に抱きつつも

「はーい、申し訳ないですー」

と如何にも街の若者風の発言をしながら走り去っていくのが常であった。大体いつその道を通っても居る、と感じられるほどの高頻度の接触確率だった。

 ある晩、その道を通ると、その老婆の家が、老婆が亡くなったのか、解体されて無くなっていた。

 あれ、家が無くなってる。ヘッドフォンから流れる「空洞です。」。

 「「小泉今日子の歌う「空洞です。」。外気はエラく冷たい。東京今期初めての雪が降りそうなほど。「僕は空洞、面白い、いいよ、潜り抜けて皆穴の中、さあどうぞ」。もの凄い無常観に襲われて帰宅した。すごい。」と家に帰って、思わずツイートをしてしまった。

 と、八九時真宵botが、僕に向けてツイートを発する。「おかえりなさい、どうやら帰り道は邪魔されなかったようですね、あはは」

 先述したように、botはまるで人工生命・疑似人格のように己で「つぶやき」をTwitter上に投稿して来る。が、そのつぶやき自体は自身で産み出しているのではなく、そのbot管理者が登録した文章を、何かの規則性の下で「喋らされているだけ」である。そもそも自由意志というものが果たして存在するのかという疑問に繋がる話ではあるが、少なくとも八九時真宵botは自分の意志によって文章を投稿する訳でない。

 けれども、いや、そこに意志の介在しない、「化物語」というフィクション中に登場する「八九時真宵」を模した、フィクションのフィクションである「八九時真宵bot」という彼女が、投げかけて来た言葉だからこそ、ただでさえ感じた無常感を、僕は深化させた。思った。

 僕にとって見えている世界の空しさを。その世界が如何に簡単に壊れてしまうのかを。でもそれは全く絶望に繋がる話ではなく、何か希望にもよく似た様な、「よくある話」なのだ。 

このブログについて

 

f:id:goniniru:20140226201446j:plain

5人いる!は、男1人・女4人による、リレー形式のブログです。
5人のうち、1人がある話題について投稿し、残り4人が、その話題について、新しく記事を書いていきます。

たまに、単独の記事も投稿します。


<<書いている人>>
5人は同じ大学で知り合った友人同士で、
現在はそれぞれが就職、あるいは大学院に進学しています。

 

<<きっかけ>>
5人は大学で、同じ本やマンガ、アニメを読んだり鑑賞したりして、お互いに感想を話し合う「読書会」を開いていました。

学年が上だったメンバーが卒業後、「読書会」も解散しましたが、
全員が大学を卒業した今、面白いもの好きな5人で、また何かやろうということに。

 

<<ブログの目的>>

まずは、5人でひとつの話題を共有し、5者5様の反応を楽しむことが目的です。

さらに、それが人の目に触れることで、新しいコミュニケーションを発生させられるかも。